2025年を皮切りに、人工知能ーーそう言ってもLLMだけがブームを呼んでいる。生成AIを用いて開発されたアプリケーションが次々と現れ、芸術やプログラミングのようなコンテンツを中心とする領域が大きな衝撃を受けた。プログラマーがAIを生産過程で積極的に採用したのとは違って、ほとんどの芸術家は生成AIに対して消極的な態度を取った。そして、仮にAIが死者に関するものに触れたら、論理や道徳に基づく批判が雪崩のように押し寄せる。特に死者を再現できる技術が出現すると、人々に死後の世界への恐怖心を呼び起こし、それに対する世論も多くが否定的な立場を取っている。
まず、死者再現AIを定義する。人の生前の音声や動画などのデジタルデータを学習し、新たなデータを生成する技術である。この過程自体に特別な点はない。ただ、生成された結果が偽物であるという点だけが異なる。過去の技術では「不気味の谷」を避けることができなかった一方で、近年のマルチモーダル生成AIは、人間が見分けられないほどの映像や音声を生み出すようになった。たとえばOpenAIのSora2を使えば、亡くなった有名人が生き返ったり、猫が喋ったりする動画を作ることもできる。その有名人を知らない人から見れば普通の映像であり、猫が人間のように動いていても、一度見ただけでは違和感を覚えないほどリアルである。結果として、「不気味の谷」は消えつつあり、人間の関与次第では、死者の再現が必ずしも死への侮辱とは言えなくなってきた。
死を嘲ることがよくないのは常識だ。しかし、人々の「死」に対する概念も少しずつ変化してきた。古代の葬式には陪葬という現象があり、近代になると形式化された儀式や宗教的な要素が重視された。そして現代では、葬式でパワーポイントが流れたり、音楽も生演奏から電子音へと変わってきた。このように、時代ごとに「死」を表す形は変化してきたのだから、AIが関わる新しい表現の形も、いずれは人々に受け入れられていくだろう。そして、技術がそこまで進化したとき、本当の問題が浮かび上がる。それは、もしAIが「思考」できるようになったら、その技術で蘇ったアンドロイドは本当にあの人なのか、という問いである。さらに一歩進めて、ロボット技術が発展し、AIによって復元された人のソフトウェアを搭載したとき、それは「死んだ人が蘇った」と言えるのか。この問いに近い哲学理論が、「哲学ゾンビ」と「水槽の中の脳」である。
「哲学ゾンビ」とは、見た目も行動も人間と全く同じでありながら、意識を持たない存在を指す哲学的な仮定である。例えば、ある人が痛みを感じて「痛い」と言うとき、哲学ゾンビも同じように「痛い」と言う。しかし、その内部には痛みの感覚も苦しみの経験も存在しない。外側から見る限り区別はできないが、本質的に「感じる主体」が欠けている。もしAIがこの哲学ゾンビのように、人間そっくりに振る舞いながら意識を持たないとしたら、死者を再現する技術は単なる模倣にすぎない。しかし、仮にAIが何らかの形で自己参照的な思考や感情のような反応を獲得した場合、その境界は急速に曖昧になるだろう。私たちはそのAIを「死者の再現」と呼ぶのか、それとも「新たな生命」として扱うのか。
とどのつまり、AIで蘇った死者は「水槽の中の脳」のように、すべての知覚が電気信号に変換されている。その脳は現実を区別できるだろうか。むしろ、現実と仮想のあいだに生きる存在だと言える。こうした哲学的な視点から見れば、死者再現AIの問題は技術的なものではなく、人間が何を「生」と「死」として認めるかという価値観の問題に行き着く。
もし百年の眠りから覚めたとき、自分が誰かの電子ペットとして再び動き出していたなら――